世界最高峰ワイン、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティのマール・ド・ブルゴーニュ!DRC社が特別な年だけ生産しているマール。ミレニアムヴィンテージ2000年!ロマネ・コンティやラ・ターシュ、リシュブールなど、同家を代表するキラ星の様なワインの搾りかすを蒸留したブランデー。樽熟成期間も20年というマールとしては例外的なまでに長い樽熟成。本来の強烈な個性はそのままに、信じられないようなふくらみと気品を身にまとった、まさにマールの世界の王者とも言うべきマール・ド・ブルゴーニュが限定で極少量入荷!
◆Marc de Bourgogne Millesime 2000 Domaine de la Romanee-Conti
◆ハードリカー/ブランデー/マール・ド・ブルゴーニュ
◆フランス/ブルゴーニュ
◆ヴィンテージ:[2000]年 ◆内容量:750ml
コート・ド・ニュイの中心に位置し、しばしば「ニュイの真珠」とたたえられるヴォーヌ・ロマネ村。この村には6つのグラン・クリュ・があり、そのすべてがブルゴーニュきっての極上品として覇を競いあっています。力強さと複雑さのラ・ターシュ、華やぎのリシュブール、堂々たる骨格のラ・ロマネ、繊細さの極みともいうべきロマネ・サン・ヴィヴァン、そして1992年にグラン・クリュに昇格したグランド・リュー。ロマネ・コンティは、この6つの宝石に東西南北を取り囲まれるようにして、まさにその中心に君臨しています。ロマネ・コンティだけが、これら6つの宝石のすべての実質をあわせもっているのです。堂々たる骨格を持ったロマネ・サン・ヴィヴァンは存在しませんが、ロマネ・コンティにはそれがあります。リシュブールの華やぎをもつラ・ロマネは存在しませんが、ロマネ・コンティにはリシュブールに優るとも劣らぬ華やぎがあります。ロマネ・コンティは文字通り中心であり、すべてなのです。
ロマネ・コンティの畑の歴史は、ローマ時代にまでさかのぼります。ローマ人による統合と葡萄栽培への感謝から、この村の極上の畑に「ロマネ」の名が贈られたのです。以来2000年にわたり、この畑には葡萄が栽培され続けてきました。有機栽培では「根で耕す」ということがよく言われます。人の手で耕すことができるのはせいぜい深さ50?60cmどまりですが、葡萄の樹は10m以上の深さまで根を張りめぐらします。その根が土を耕し、数十年もたつと土の組成そのものが変わってしまうのです。ロマネ・コンティの土は、まさにそうした「根による深耕」を2000年以上にもわたって続けてきた特別な土地。かつてローマ人が目をつけた優れた土壌と微気候を幾十世代にわたる葡萄栽培家たちの手が、完璧なものにつくり変えたのです。いわばこの土地には、時間の魔法がかけられているのです。
ロマネ・コンティのワインは、つねに垂涎の的でした。10世紀の初頭以来、この畑はサン・ヴィヴィアン修道院のもとで耕され、18世紀初頭には、ルイ14世の侍医が持病の治療薬として毎日スプーン数杯のロマネ・コンティを処方しました。ルイ15世時代、葡萄畑の所有をめぐって王の寵妃ポンパドール夫人と、ブルボン王朝のの名族コンティ公爵の間で争奪合戦が行われました。1765年、この勝負はコンティ公爵の側に軍配があがり、腹を立てたポンパドール夫人は、以降ヴェルサイユの宴席からブルゴーニュワインを締め出した、とも伝えられています。一方コンティ公爵は、この葡萄園のワインをすべて自家用に切りかえ、市場から引きあげてしまいました。以降このワインはコンティ宮殿でしか味わえない特別な酒となったのです。ロマネ・コンティの名はここに生まれたのでした。
コンティ公爵が芸術文化の世界の最大のパトロンだったことも、このワインの名声を一層高める一因となったでしょう。ざっと名を挙げただけでも、哲学者のルソー、百科全書のディドロ、劇作家ポーマルシェらがコンティ宮殿に出入りしており、あのモーツァルトもパリを訪れた際には公爵家で演奏をしているのです。こうして1769年、フランス革命で貴族の荘園がすべて没収され、あらゆる「旧体制」が否定された際にも、「ロマネ・コンティ」の名前だけは敬意とともに残されることになったのです。革命後、ブルゴーニュの多くの畑に競売と遺産相続で細分化される運命に見舞われましたが、ロマネ・コンティの葡萄園を分割しようとするオーナーは一度も現れませんでした。ローマ時代から続く単独所有畑(モノポール)としての名声は、こうして連綿と守られてきました。革命も戦争も、その名声に髪ひとすじの傷も負わせられなかったのです。