フーコーの闘争?〈統治する主体〉の誕生

(中古品)フーコーの闘争?〈統治する主体〉の誕生
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【商品説明】
 
サイズ
高さ : 2.20 cm
横幅 : 13.20 cm
奥行 : 19.20 cm
重量 : 100.0 g ※梱包時のサイズとなります。商品自体のサイズではございませんのでご注意ください。
「闘いのとどろきを聞かなければならない」 ミシェル・フーコー ▼フーコーの権力論は1970年代半ば、『監視と処罰』と『知への意志』で頂点に達する。だが『狂気の歴史』に始まり、六八年五月を経て深化した、ラディカルな思索は、運動の退潮に伴い、権力と抵抗の二元論として受容された。闘争や抵抗は、その事実ではなく可能性のみが語られるようになった。しかしこの時期、フーコーの思索には新たな展開が生じていた。〈統治〉概念の導入を契機に、権力論が再構成され、倫理、自由、主体化、パレーシアの概念を軸に、独自の主体論が立ち上がる。そして〈統治〉する〈主体〉が姿を現す。 ▼後期フーコーは「権力があるところに、抵抗がある」には留まらない。権力関係を成立させる〈自由〉に賭けるのだ。自由を用いる統治する主体は、「主観的な」真理によって、自己と他者の振る舞いを導き、他者から導かれる。 闘争とは、既存の導きのあり方を問い、導きの向きを変えることだ。それは絶えることのない、他者の導きへの叛乱であり、自己への反逆である。後期フーコーにおける生の美学、自己の倫理、自由の実践は、自己と他者への統治的なはたらきかけを指す。統治論が問うのは「いかにこのように統治されないか」である。現在性の哲学、現代統治性批判としてのフーコー思想は、この地点からこそ読まれるべきだ。 ▼後期フーコー権力論の転回、その可能性の核心を捉える俊英の鮮やかなデビュー作。