

当事者の一人近衞前久はいわゆる「本能寺の変」を「明智乱之砌」と振り返った。ところが「島原の乱」が起きた寛永十四年(一六三七)、五十五年の歳月を経て光秀謀反の全容を知る老人が現れた。この老人は足利義輝の遺児尾池義辰(足利道鑑)と名乗った。驚くべきことに徳川幕府と細川藩はその事実を認めてその子孫たちを厚遇した。義辰は信長の兜と槍を熊本藩主細川忠利へ献納して身の証とした(『細川家文書』二一)。それは明智軍が接収し幻の十六代足利将軍に捧げられた戦利品であった。信長の兜は頂戴し槍は返すと記した義辰宛の忠利の礼状が、日本史に大転換を迫る。
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